ソノキュウ |
アイ・ジャスト・ウォント・トゥー
メイク・ラヴ・トゥー・ユー
(ウィリー・ディクソン)
父の一回忌のために帰省していた三年前の五月の鎌倉の雰囲気はあまり詳細には思い出せない。
身近な自然に心を打たれることは多かったと思うが、
それにもまして、テル・アビブに残してきたS子のことが気にかかっていたのかもしれない。
* * *
その一ヶ月は鎌倉の実家にいただけではなく、
さまざまなところを旅行した。
同級生にIというのがいるが、
もう二十年以上も泥んこの田畑で夢を食い続けていて、
バクのように逞しい。
私は彼の暮らす富士山麓へも行った。
もう少し海抜の下った土地には、
嫁方の実家に居候するようなかたちで
兄夫婦と二人の娘たちも住んでいたので、
何かと縁のある場所だった。
Iはにんじん畑の間引き仕事の駄賃として私に五千円をくれた。
間引いて畑の傍らに積んであった小さなにんじんを、
隣の畑で働いていたおばさんがおくれ、といった。
「葉っぱのところはやはりてんぷらですか。」
「いんや、サラダにして食うんだ。」
おばさんの口からでたサラダという響きと
おばさんのもんぺ姿とのコントラストが印象に残った。
Iの幼い息子は間引かれて有余るにんじんを
せっせと自分のおもちゃの車に積み込んでは、
畑の畝から畝を走り回って遊んでいた。
Iの息子は分けあってIの男手ひとつで育てられていた。
イスラエルに暮らす自分の息子を思った。
彼はこの黒く湿った土からではなく、
砂漠の乾いた砂や石から生まれた。
乳離れのとき、
薬物中毒の禁断症状のようになって暴れる息子のことが手に負えず、
既に別居していた彼の母親が夜中突然に私の家にやってきて、
乳母車ごと息子を置いていったことがあった。
泣き喚く息子を抱いてどうしたものやらと夜の町を彷徨った。
小さな砂漠の入居地の冬夜に、
乳を断たれ半狂乱の息子と
途方にくれた私の他に人影はなかった。
いくらなだめすかしても泣き止まない子供にやりきれず、
町のはずれに連れて行ってしばらく放置してみようかとも思った。
町のはずれのその場所は、
乾いた川床がクレーターの縁に通じている所で、
冷たく強い風が鳴っていた。
自身の力に絶望を感じた私は、
何か超自然の力のようなものにすがる気持ちだったのだ。
私が腕から下ろそうとしたので、
息子は殊更に暴れた。
そして宙を蹴る彼の足が凍てつく岩肌に触れると、
子供は骨にしみる強風の音にも負けじと大きく泣き叫んだ。
私は彼を再び胸にひしと抱きしめたのだった。
富士山麓に滞在した数日は
空の全面にうっすらと雲がかっかっているような天気が続き、
目当てにしていた富士山は初日にちらっと部分的に見えただけで、
ついぞその畏敬なる全体像‐絶景を拝む機会はなかった。
ただ、にんじん畑の肥沃な土の匂いがしみついた。
* * *
さて、S子は果たして多淫な女であるか?
そして、私にそれを問う権利があるか?
しかし、私が日本でこうして風景のある旅情に独り浸っているとき、
S子はかの地イスラエルにおいて自他の肉欲を解放していたことは白状しなければならない。
私とS子は私の帰省のほんの少し前にねんごろになったのであるが、
帰省のために離れ離れになるとき、
それからの二人のことについては話し合わなかった。
私は初心ですぐにS子に惚れていたが、
日本にいる間あまり恋情を抱きたくはなかったので、
むしろ二人の関係をあいまいにしておきたかったのだ。
とはいえ、
内心S子が自分に心底惚れて純潔に自分の帰りを待っていてほしいという、
勝手な思いはあった。
だから、イスラエルに帰ってくる直前に、
また合いたいと連絡を入れると、
ジツハネ、アノネ、アレカラネ、
とS子の性生活を打ち明けられて傷ついた。
初心にも私は傷ついた。
ここでは、他者が自分の気持ちをわかっていてくれるという
エクスペクテーション(期待)は通用しない。
砂漠的といえば砂漠的、
大陸的といえば大陸的、
万事において明確なデコラレーション(宣言)が必要なのに。
しかしだ。
反省してみたまえ。
君自身内心の浮気はなかったか?
豊橋の祭りで出会ったあのフランス娘に惹かれなかったか?
彼女に求められていたら、君は誘いに乗らなかったと言えるか?
私はS子の打ち明け話に傷つけられるとともに、
自分の受動性に、
あるいは山気の無さにイライラした。
テルアビブに戻った私の心境は複雑であった。
S子に会いたかったが、
やきもちで見栄っ張りの私はS子に会いに行くことをためらった。
一週間ほど悶々と考えていたであろうか、
しかしS子への気持ちはまだすっきりとならなかったので、
私たちの関係をはっきりさせたいと思い、
S子に会いに行くことに決めた。
再会の直前まで、
どんな顔してゆけばよいのか、
何を言えばよいのか、
わからなかった。
初めてのデートのときのようにどきどきした。
服装のことまでどうしようかと迷った。
自意識過剰になるあまり、
あえて妙な格好をしていった。
それまで履くのをためらっていた派手な色取りの貰い物のモカシンがあったが、
それを初めて履いて行った。
そういったやけっぱちの心境であった。
しかしS子のその顔を再び見たとき、
うるさい私の心の中で何かひとつ解けたような気がした。
それは、
夕暮れ前に僅かに残された陽だまりに戯れる
タンポポの花の種のような、
華奢でふわふわした印象を伴って知覚された。
傷心はどうであれ、
私はこの女が欲しいのだとわかった。
私は本能に従うことにした。
翌日の朝までにはS子へのマウンティングを果たし、
私は自分の牡をS子にはっきりと示したのだった。
(つづく)