ソノニジュウサン |
とにかくこのままやってみよう
貴方を失ったそのことが嘘になってしまうから
(ジョニー・アップル・シード)
ジジムラ
S嬢はテル・アビブから北東に車で半時間くらいのところに位置する
「クファル・サバ」という町に住んでいた。
その響きが楽しくて、
あ、そう、クファ・サバね、クファサバ!覚えやすいよ、
と僕は新たな食べ物でも知ったようにはしゃいだのだが、
後から聞けば「祖父の村」という意味だそうで、
町の名称としてはやや渋めだ。
日本で育った僕にとって、
そのヘブライの言霊が直接琴線に触れることはなかったので、
それは逆に良かった。
ロマンチックな夢の風船を最大限に膨らませ、
ふわりふわりとせっかく辿り着いたのに、
迎えられた先が「ジジムラ」と同時通訳されれば、
興醒めするというものではないか。
さて、「祖父村」は名の通り閑静な住居地だった。
僕がこの地に来たのは十二月ことで、
いくら赤道に近いイスラエルと言えども冬は冬であり、
年中蒸し暑いバンコクから渡航してきた僕には酷く寒く感じられた。
また、イスラエルでは九月に新年を迎えるので、
他の国々では一般的な年末の感覚、
ましてや、日本のような「師走」のさわしさが感じられない。
「祖父村」で過ごしたその年の瀬の雰囲気は、
そこにひっそりと佇む冷気のような地味さに、
恋するS嬢のぬくもりときらびやさが対比して、
いっそう僕の胸を締め付ける効果を出していた。
このコントラストの強い感覚は、
イスラエルに下り立った日の翌朝、
町を散策したときに真っ先に気が付いた。
ピリッとしまった空気を鮮明な色が透き通っている。
ブーゲンビリアの枝垂れて咲く花々の、
赤とも桃とも紫ともつかないような至極デリケートなやわらかい味わいの、
しかしそれは痛烈に視覚に訴えてくる鮮明さを伴った色彩を、
つまりは光というもを体験して、
僕はいたって感激したのだった。
街を廻りながら通りの名に注目してみると、
「ヘルツェル通り」「バルフォー通り」
「ヴァイツマン通り」「ベン・グリオン通り」
「モシェ・ダヤン通り」「ビアリク通り」
「ベン・ジャミン通り」などなど、
口に出してみれば何とも重厚に響く名が羅列する。
調べてみると、
それらは「イスラエル」歴代の著名な運動家や政治家、
ヒーロー的軍人や芸術家、聖職者らに因んだものばかりだった。
このことは「クファル・サバ」に限らず、
イスラエル全般において、
ユダヤ人が主に居住する都市町村の通りの名称は、
往々にしてそうであることが後からだんだんとわかってくるのであるが、
とにかくも、
祖父村には祖父村なりの、
ユダヤ的、シオニズム(*)的な、
わかり易く例えれば、
のぼり鮭のような壮絶なロマンチシズムが背後にあり、
この「ジジムラ」という、
僕のような無知が一歩間違えればインポテンツになってしまうような、
誤解されやすい名前になったんだな、
と妙に納得したのだった。
* * *
数ヶ月ぶりのS嬢との再会は嬉しくも、
何かギクシャクしたものだった。
インドで惚れたS嬢に会いにイスラエルまでやってくるという、
そのアドヴェンチャーの遂行にもっぱら注力していたから、
その後の生活やS嬢との関係
‐恋に落ちているので無論ずっと一緒にいたいのだが、
いかように発展させてゆくのか‐
についての具体的なヴィジョンが僕にはなかった。
思い返せば、
ヒマラヤでのミッションを終えてから、
S嬢のインド出国前に駆けつけたニュー・デリーで、
少々ヴァカンスじみたことを謳歌していたときだった。
こんな恋は初めてだよ、
是非君の国まで会いにゆきたいよ、
お金? 暮らし?
いや、何とかなるさ、
と絡め合う指先から、
恥ずかしげもなくそんな甘い言葉を吐いていたとき、
優しくではあったが、
釘を刺されたのだった。
「うーん、イスラエルってね、
けっこう厳しいのよ、政情も不安定だし、
人々も簡単じゃないし、、、。」
「ワタシに会いに来たいっていう気持ちはすごく嬉しいけど、
それは果たして良いアイデアかしら、、、。」
べた惚れの僕の頭にヨガ教師のそんな言葉が入るわけはなかった。
バンコクで出会った日本人紳士の奇跡のような出資を啓示として受け取った僕は、
示された方角と忘れられない恋の甘美な香りだけを頼りに、
‐前例ののぼり鮭たらんと‐
やって来たのだ。
まさになりふり構わず、
着の身着のまま、
インドの虱がたかったままの長髪姿で、
‐ナチュラリスト気取りでシャンプーはほぼ一年間使わなかった‐
僕はテルアビブの空港に降り立った。
所持金は何と7ドル。
‐日本の銀行口座に多少の残高はあったが、
国際カードが失効していたので、
実家から更新カードが届くまで一文無しだった‐
何たる無鉄砲!
何たる図々しさ!
嗚呼、愛しの甘ったれ坊や!
盲た恋人よ!
しかし、こうした僕の古風なロマン主義が、
実践的なユダヤ人のS嬢に通じるわけはなかったのだ。
「ジジムラ」ではS嬢の借りる部屋に寝泊りするのであるが、
そのアパートには他の女性ルームメイトも住んでいて、
キッチンも風呂場も共同で使う。
ルームメイトの彼氏が一晩、二晩泊まっていくというのならまだしも、
真っ黒く日に焼けた長髪のアジア人が無一文でいきなりやってきて、
滞在期間も知らせれず、
光熱費も支払われず、
しれーっとした顔で自分のアパートに居候されたらたまったものではない。
こうして立場を置き換えて鑑みれば、
その女性ルームメイトはとても寛容な人だったのだ。
時折苦虫でも噛み潰したような顔で僕を睨んでいたものの、
結局は僕がある程度の資金を得て、
テルアビブのホステルに移ってゆくまでの冬の一ヶ月間、
僕をアパートに置いてくれたのだから。
果たして、
このようなおんぶり抱っこ、
甲斐性なしの僕を抱え込むことになったS嬢は、
僕に対してだんだんと冷たくなっていった。
彼女としても、
僕がのこのこイスラエルまでやってくることになった要因と責任を感じてか、
エルサレムやネゲブ砂漠(*)などの観光に連れ立ってくれたり、
季節のハヌカ・ドーナッツ(*)を買ってきてくれたりしたが、
何か腑に落ちないといった顔つきで、
僕の人生観やその後のプラン‐そんなものなかったが‐をやたら詮索し、
愛してくれるときも何か機械的だ。
そしてある冬日に‐当地ではしかしコントラストが強い‐、
より金髪に近いS嬢の美しい栗毛に惹かれ撫でようと手を伸ばすと、
言い放たれたのだ。
「ワタシ、なんだかもう冷めちゃってるの、もうインドでのような感じじゃないのよ。」
「、、、。」
「ゴメンネ、でもやっぱり人生で違うステージにいるヒトとの恋愛はむつかしいわ。」
「それにセックスも燃えないの、、、他のイスラエル人のオトコたちみたいに、、、。」
「!!」
「もうあなたは迷わないで先に進んだ方がいい、
動ける準備ができたら出て行ってね、
できることならワタシ手伝うから、、、。」
「、、、、。」
* * *
“もろもろの 苦難乗り越え やってきた
愛は勝つ のぼってきたよ 僕ちゃんは
見のがすな ここぞは本流 進むだけ
お目当ての 伴侶とぴったり ふるふると
やったるぞ 具合良さげな 川床で
道なかば ベッドインまで ほど遠い
ノーマーシー 浮気メスザケ ノーマーシー
無残にも 無慈悲クマヅメ うち砕く
恋ごころ 打ちのめされて 瀬に浮かぶ
捨てられて ぷかぷかぷかと サヨウナラ”
無論、このような下手な川柳で、
傷ついたこころを茶化すほどの余裕は僕にはなかった。
イスラエルに到着して約一ヶ月後に迎えた新年早々、
僕は予期せぬ失恋に面食らい、
打ちのめされて地に落ちた慕情と誇りをずるずると引きずるように、
春の兆しなどはまったく見えてこない、
テルアビブの冷たい街を徘徊していたのだった。
(つづく)
(*)ハヌカ・ドーナッツ‐紀元前二世紀、ギリシャの被占領民であったユダヤ人は反乱を起こし、エルサレム神殿(第二神殿)を奪回する。(マカビーの反乱)神殿の燭台用の油壺はギリシャ統治による宗教弾圧のために台無しにされていたものの、奇跡的に残されていた唯一の油壺の油で燭台を灯してみたところ、一日灯せればよいと思われた残量の油で八日間灯は続いたという。このことから、ユダヤ教の「ハヌカ祭り」の際には、特別な燭台に八日間ロウソクに火を点け続けるのが仕来りとなり、またこの奇跡の油に因み、揚げ菓子であるドーナッツを食すようになったとのこと。
(*)シオニズム‐十九世紀末に欧州のユダヤ人の間で広まっていったユダヤ人国家建設運動。(ウィキペディア参)
(*)ネゲブ砂漠‐イスラエル南部の砂漠地帯。(ウィキペディア参)