ソノゴ |
紹介された金融会社での仕事が自分に向いていないことは働き始める前から知ってはいたものの、これほど好きになれない仕事に出くわしたのは久しぶりであった。
まだ就労のビザが下りていないころ、高層ビルの建築現場での内装の仕事をもぐりでしたことがあったが、このオフィスでの仕事はそれに次いで嫌であった。
もっとも、労働条件や社会保障の面でこれほどの好待遇を受けたことはなかったし、月給も自分にとってはびっくりするほどよかった。イスラエルにおける自分のこれまでの経験では、働いた後決められた期日にきちっと給料が支払われること自体が驚きであった。
この国では、合不法に関わらず、仕事を見つけて働くことは割と容易であるが、給料支払いに至っては何かと問題が多く、自分の働いた分の金を求めて雇い主を追いかけ回さねばならぬことが多々あった。
不法就労であることの弱みに付け込まれて、建築現場の内装の仕事の日当が十日分もごまかされたことがあった。
雇い主はまだ三十代の若いロシア系の人物であったが、けっこうなアル中で、他のロシア人労働者らと朝から飲んで仕事をしていた。あまりにも劣悪な労働条件で、身体的にもきつかったので長続きはしなかった。
仕事をやめてから三週間ほど毎日のように不足分の給料を求めてそのアル中を建築現場まで訪ねていったが、覚えがない、証拠がないと、結局うやむやにされた。悔しかったが、不法なので出るところにも出られないし、かといって暴力に訴えるほどの度胸はなかった。十万円ほどのお金は自分にとっては大金であるが、それを追い回して費やす時間と労力を考えて、結局諦めた。
後になって、仲間の労働者から聞いたことによると、その雇い主は仕事帰りの飲酒運転中に路線バスに突っ込んで、何を思ったか、驚いて飛び出してきたバスの運転手の顔に唾をひっかけるまでの失態をさらし、逮捕されて投獄されたらしい。そのせいで、他の労働者らにも給料が未支払いのままとなり、合法である彼らは、その雇い主を皆で訴えるとか、工具を差し押さえるとか、そんなことになったらしい。
それを聞いてイイザマだと内心思ったが、だからといって、アル中にとっては不幸な出来事であるわけであるし、何であれ他人の不幸を喜ぶべきではないと、そんな自分のこころを窘めたのだから我ながら偉いなどと、くっと胸を張ったが、元仕事仲間にはちゃっかりと、奴を訴えるときは自分への未払い分も勘定に入れておいてくれと頼んでおいた。
ところで、この金融会社の仕事には、カタカナ言葉でナンジャモンジャ・マネージャーという肩書きが付いていた。
会社は為替や株式、金や銀、原油や大豆などの投機取引がオンラインでできるインターネット・プラットフォームを提供していて、そのサーヴィスを利用する日本人顧客らの世話をするというのが私の仕事であった。
客が取引する商品の売値と買値の差は会社の利潤となるが、主な収益は顧客らが投機に失敗したお金からであった。会社の抱える顧客の九割が投機に失敗する、つまり賭けた金をすってしまうということであった。
この会社はイスラエル資本であるということを客に伏せており、また客が入金した金を担保として預かり、日本などの取引規制の厳しい国では考えられないほどの高い倍率で証拠金取引ができるという、ギャンブル性の高い金融商品取引の場をオンラインで提供していたから、世界中に多くの顧客を抱えていた。イスラエルの組織であることを隠しているのは、近隣のアラブ諸国や世界中に住む、イスラエルやユダヤに対して反感を持つ人たちからの注意を逸らすため、またそういった人たちをも顧客にする機会を失わないためであろうと思われた。会社にはアラビア語を含め、様々な言葉を母国語とする在イスラエルの「外人たち」が、各々の国の顧客らのための「カスタマーサービス」として勤めていた。賭博場の元締めに雇われた外国人従業員たちだ。
言葉や宗教やイデオロギーが違っていても、世界中の金融ギャンブラーのこころを捕らえているのは金欲だ。私もお金を求めてこの高層ビルの十階に辿り着いた。職種を選んでいる状況ではなかった。私が一応日本人であるということから、すぐに雇ってもらえたのがこういう業界であったのだ。
路上でギターを弾いて小銭を投げてもらったり、もぐりの仕事を回してもらうなど、ひとの親切や慈悲に頼って、あるいは月謝をもって集まってくれる剣道の練習生らとの交流関係のおかげで何とか生活してこれた自分が、金融業界ひしめく高層ビル群の「バベルの塔」からひとの「欲」につけ込んで「金」を巻上げる会社の従業員として働くことになった、そしてそれはこの国でほとんどすべての社会保障を私に与え、世間一般には全うな職業についた「社会人」として認められるという、その皮肉な現実に苦しんだ。
俺はとうとうバビロンシステムの手先にされてしまったのか
と早朝の通勤時に渡る歩道橋の上で、ポケットにいつも入れていたハーモニカが、己の運命を呪うように、また懺悔するように咽び泣いた。
S子よオマエは今いずこ オイラにゃこんなブルースがはりついちまったよ
(つづく)