ソノヨン |
S子は心労を訴え、
実家で療養することになった。
そういうわけで、
六月の中旬から始まり、
めまぐるしく燃えるように過ぎていった三ヶ月の夏の疲れとともに、
やはりめまぐるしく進展してゆく今現在の生活の不安が重く心身に負いかぶさってくる感じは、
しばらくぶりにじっと一人で悶々とする時間ができた私としても、
わかるような気がするのだ。
別れた女との間に生まれた息子の親権を国に控訴していた最近までの七年間は、
就労の許可が下りていなかったので、
剣道場を開いてそこの生徒さんたちから頂く月謝や、
街角で投げ銭目当ての演奏をしたり、
ひとの子供の世話をしたり、
もぐりで収入がえられることを色々やって必要なお金を手に入れていた。
本当に色々やったかといえば、
それほどでもないかもしれない。
お金持ちの家の掃除や庭の手入れ、
リサイクルする古タイヤの洗浄、
日本語家庭教師、
絵画教室のモデル(ヌードもやった)、
映画のエクストラ、
すぐに首になったが石の彫刻家のアシスタントなど、
知り合い伝いにこういった仕事を紹介してもらっていた。
まだ砂漠の小さな町に住んでいる時分だったが、
早朝に開店前のスーパーマーケットの駐車場にいって、
隣町の工場からトラックで運ばれてくる食パンの見張りをするという仕事もやった。
スーパーの開店後、
すべての箱を店内に搬入し、
各食パンを分類して値段札を貼り、
棚に陳列するまでが仕事だった。
三時間ほどのアルバイトだったが、
日の出前から独り吹きさらしの駐車場で数時間じっとパンの見張り番をするというこの朝行で、
その冬の数ヶ月はやり過ごした。
暗くて読書も書き物もできないし、
かといって山積みされた食パンの箱の横で居眠りしてもまずいので、
毎朝アコースティックギターを持っていって指を動かしていた。
当時付き合っていた女がクレーターの縁のすぐ脇のアパートに住んでいたので、
パンの見張りの仕事へはその女の床から早朝にするりとぬけだして通うことが多かった。
町の東端からは、
眼下に巨大な侵食クレーターが何キロメートルも続いていて、
少し北のほうに目をやると、
クレーターの底の採石場の痕に冬だけ極まれに降る雨水が溜まって自然にできた小さな池が、
まだ白みはじめたばかりの空に照らされて、
淡い青や赤の色彩を遠くのほうで反射させていた。
夜明け前の暗い母体に淡く濡れ浮かぶ水の色合いに魅せられ、
なんとエロティックな光景なんだろうと思っていた。
ほんとうに困窮したときには、
知人や友人、家族からもお金を無心した。
就労のビザが下りてから、
私は鉄道駅の指定された場所で楽器演奏をして時給で賃金をもらうという仕事を得た。
朝の六時から九時までの三時間、
眠そうに電車を待つ通勤通学者たちの待合場のベンチのひとつに陣取って、
私はスライドギターの即興演奏に没頭していた。
エクスタシーのところを抽出して表現することで、
ブルースは言葉や形式を超えた何か普遍的なものになると信じている。
変性意識状態のときに聴いたジミヘンのカセットもそうであったが、
幼馴染と観に行ったローリー・ギャラガーの出す音の絶頂感がたまらなかった。
高校生のときに初恋した娘が私を振った後、
しばらくしてから招待してくれたので体験することのできたバディ・ガイの演奏も凄かった。
何かうねりのようなものが実際に目に見えるような存在感を持って迫ってくるのだった。
エッセンスをつかんだなと思った瞬間は、
自分も恍惚となるわけであるが、
一緒にそれを体験したひとがいれば、
他のひとたちに混じっている中でもすぐに見分けがついた。
しかし、単調な拍子にワンパターンの波が打ち寄せてくる感覚の始まりも終わりもないような音で、
調子に乗るまでに長い時間がかかったり、
まったく乗りの良くない日もあったので、
人によっては聴くのがたまらなく嫌だったかもしれない。
在イスラエルの日本人の紹介で、
ある金融企業の会社員になることになったのは、
鉄道駅での仕事が三ヵ月続いた後まったく回されてこなくなり、
いよいよこの綱渡りの経済生活が二進も三進も行かなくなってしまったからである。
S子はまだ実家に引篭ったままで、
一ヶ月前に隠遁を始めた当初は断続的にはできていた
電信での意思の疎通もほとんど皆無となっていた。
(つづく)