ソノニジュウハチ |
もうこの地べたじゃ暮らせない
(山口富士夫)
「このところの行き詰まりを、、、
何だっけ、その、ご時勢っていうのかな、
わかるでしょ?
いったいどう説明すればいいのだろうね。
えぇ、Dさん?」
先月、心臓発作を起こして死にかけたが、病院でまた蘇生された、さほど高齢でもない友人のベッドの縁に腰掛け、なかばうわの空のようにHは呟いた。
「ところで君は誰だい?」
「僕だよ。ぼく。ほら、日本人の。」
しばらく意識を無くしていたからなのか、それとも心臓発作の処置に使われた薬物の副作用なのか、D氏は家族や普段から仲良くしていた友人らの名前さえも忘れてしまっていた。
「変なんだよ、変なんだよなー。」
「何が?」
「ここにさ、、
みんなの名前とか、電話番号とか、、
全部書いておいたのにさ、、
無いんだよ。」
D氏はクロマチック・ハーモニカの名手であるが、自分の楽器と携帯電話とが混ぜこぜに認識されるのか、Hが箱から出してあげたハーモニカを摩ってみては眺め、また思い出したようにそれを口に持っていき、プーっと吹いてみは、そう言うのだった。
食欲や便意、言語機能は失われてはいなかったものの、D氏の知覚はある日突然迷子になってしまい、明らかに退行していた。
九十歳になる母親と同居しているD氏は、お母さんよりも先に介護が要るようになってしまったが、幸いなことに、昔の彼女だったという、Eという情深い女に二十四時間付っきりで世話をしてもらっている。
いろいろと「わけあり」らしいのだが、彼よりも十五は年若い、まだまだ性的にも魅力的なEが、ボケ老人のようになってしまったD氏の粗野で男尊女卑的ともとれる言動にも耐え、誰もやりたがらない下の世話といった面倒を献身的に引き受けている様子は驚愕に値し、「男と女の仲はわからない」などという月並みな表現ではおさまらない、何かおどろおどろしいものさえ、Hは感じるのだった。
「君のことは好きさ。」
名前は覚えていないのだが、きっと気心とか何かで感じるのだろう、感染症が流行っていた時期に、ロックダウンを逃れ近所の浜辺でひっそりたむろする連中がいたが、そこでD氏とHとは随分と時を共にしたのだ。
「僕もですよ。。。」
無口でただ海の情景を楽しみ、時折ハーモニカを奏でるD氏とは、特におしゃべりをしなくてもよいし、常に一緒に肩を並べて座らなくてはならないような義務感もうまれない。
この丁度良い距離感がHは好きだった。
だが、人間関係やそれに伴う感情というものは、状況が変わればそれ相応に変わるものだ。
何らの決まりごともなく、海辺でばったりの偶然を必然だと喜び合い、美しい夕暮れに抱き合う二人の男たちの友情はまったく別なものへ変貌してしまったことにHは気がついた。
自然と偶然という無所有の舞台で遊ぶ男たちは、国籍や年齢の違いはもちろん、お互いの私生活からも開放されたこの時空間を「ミラクル」と呼び重宝していた。
だがD氏の事故により、この舞台は極めて固有で私的な空間へと移され、息苦しく閉じ込められたものになってしまった。
否、事故というよりは、むしろ、そうだ、あのEの介入により恣意的に調整され始めたD氏との面会が重くていけないのだ、とHは考え始めるようになった。
献身的とはいえ、EもやはりD氏の付っきりの介護に疲労困憊するのだ。
赤ん坊のように自分の傍から離れたがらないD氏に疲れ、息抜きを渇望するEは電話するのだった。
「あのさ、H君、、、ちょっとだけ、、その数時間だけ、、看ていてもらえないかな、。」
度々海辺にも顔を見せていたEにはわかっていた。
人見知りのD氏もHには心を開いていたし、Hは独身で何故かいつも暇にしている雰囲気があり、また「NO」と言えないタイプの男でもあった。
そういうことから、Eも頼みやすかったに違いない。
Hとしてみれば、見舞いに行こうかな、と自発的に思い起こす暇も与えられず、Eという第三者の都合でD氏と過ごす時間がアレンジされることに戸惑い、またその頻度が増すにつれ次第に倦怠と拒絶感を覚えはじめたが、既に事情を知ってしまった以上、情は入るわけで、Eからのメッセージが入るたびに、今日はちょっとな、と思いつつも、無視できぬ義務感から出かけていくのだった。
憐憫を誘うようなEのメッセージにも苛苛したが、また断れば断ったで、罪悪感に苛まれる小心の自分にも更に腹が立つHなのだった。
* * *
とまあ、このような他愛もない人間ドラマのひとコマにズームインしている矢先、テルアビブでは久々に防空サイレンが鳴った。
もう数え切れないほどガザからのロケット攻撃にさらされてきているから、僕としても、ああ、またですか、何ですか、選挙ですか、くらい呑気に構え、休日の早朝の床から出ることさえしなかった。
2023年の10月7日の土曜日が、これほどまでにイスラエル人たちのコミュニティーを震撼させ、またその結果、地政学的に全世界を巻き込むことになるとはまったく思いもしなかった。
そんな重大な出来事の起きたことに気づき始めたのは、実際に一日、二日経ってからだった。
普段からあまりニュースは見ないようにしているが、今回はハマス率いる武装集団がイスラエルの屈強なセキュリティシステムを破り、境界線付近のイスラエル人集落を襲い、老若男女、国籍を問わず虐待して殺害、あるいは人質としてガザ地区に連れ去った、また境界線付近のオープンスペースで開催されていた3000人規模の国際トランス・ダンスパーティ会場へも同じくハマスの武装勢力が雪崩れ込み、260人とも言われる数の、主に若者たちを暴行、殺害、または多数を人質として連れ去ったとの知らせが動画などで生々しく伝えられ始めると、普段から割りとノホホンと構えている自分にも、事の深刻さがびしびしと伝わってくるのだった。
「イスラエル」(ここでは俗に言うパレスチナ自治区と分けて示す)は小さい国で、人口が比較的大家族を以って構成されている。
似た者同志の集う場所も割りと限定されていて、何処かで知っていた人物とまた別の町や集いで出くわすなどということがよくある。
だから、1400人と言われる‐セキュリティ大国のイスラエル人コミュニティーにとっては‐とんでもない数の犠牲者が出た場合、その中にはひょっとすると自分の親族や友人、または顔見知りが含まれている可能性が結構大きいのである。
近しくしていた人が殺害、あるいは拉致されたとの知らせは届いてはいないが、僕の剣道仲間が三世代家族と暮らす南西部の街「オファキム」がハマスに襲われ、命辛々逃げ出したと聞いたときには胸を撫で下ろしたし、僕の周りでは、友達を亡くしたとか、友達の友達の祖父母がキブツで殺害された、など聞くことはそう珍しいことではない。
現在わかっているだけでも、200人を超える老若男女、幼児が人質としてガザで拘束されているし、また犠牲者たちのなかにはこれまで何処かですれちがったことのある人たちもいるかもしれないことを考えると気が重い。
視点をパレスチナ(ここではイスラエル国内ガザ地区とヨルダン川西岸地区を示す)に移してみれば、更に大変なことが起こっている。
事件直後にイスラエル国防軍はガザ地区への爆撃を始め、ハマスの軍事拠点が攻撃目標ではあるものの、ガザでは武力勢力が一般市民と入り混じって活動しているため、老若男女、幼児を含めてこれまで5000人以上(10月23日現在のUNの報告。たぶんこの数字は倍増するだろう。)のパレスチナ人が殺されていると報じられている。
ガザ地区とは分断されているパレスチナ西岸地区でも、大規模なガザ爆撃と地上侵攻に抗議する民衆とイスラエル治安維持部隊との衝突、またユダヤ人入植者からの攻撃や小競り合いから、既に100人以上の死者が出ている。
* * *
僕はイスラエルで暮らしていて、気心知れた友人、知人、自分の子供も含めて、そのほとんどがユダヤ人であるが、自分には市民権はないし、複雑な歴史背景、事情があることは知りつつも、パレスチナ人(あるいはアラブ系住民と呼ぶべきか)に対する政府の対応、差別的態度には疑問と反発を覚えるし、特に近年の西岸パレスチナ自治区におけるユダヤ系移民の蛮行、そしてそれを積極的に擁護、推進する政策には嫌悪すら抱いていて、自分としては「イスラエルに住む数少ない仲間たち」を愛しつつも、政治的また信条的にも「親イスラエル」ではない。
しかしそうかといって、イスラエル国外で多く見られるような、俗に言う左派やリベラル、あるいは「見識ある」人たちがその立場や同情を表明する「反イスラエル」でも、「親パレスチナ」でもない。
イスラエル建国直後の「ナクバ」やそれ以降の圧制の苦しみは暗く悲しい史実だが、これは第一次中東戦争の遺産であり、その責任はユダヤ人のみにあらず、ユダヤ人国家建国を手助けした英国統治の欺瞞と怠慢、そして武力による戦争を仕掛けたアラブ諸国の敗北の結果から導かれたものと僕は理解しており、ユダヤ人の消滅を謳うハマスのような過激なイスラム原理主義者たちや、闇で利権を取引する腐敗政治家たちと市井の人々らとが往々にして一緒くたに語られる‐そして今回の戦争でまたその線引きも難しくなるだろう‐「パレスチナ」を手放しで支持する気にはなれないからだ。
正直言って僕は「イスラエル」にも「パレスチナ」にも同情に近い感情をもつことはできるが、同時にどちらに対しても違和感を感じるのだ。
‐だらしないぞ、はっきりしろ、と思われるかもしれませんが、これは本当のことでありまして、自分自身にも違和感を感じる僕なのですから、人様にはなおさらのこと、違和感を感じるのは当然なんでございます。落語調でごまかすつもりはありませんがね。‐
この感覚は長らくこの地に居ながら、ずっと僕について回ってきたものだが、今回の事件と紛争の勃発により、そっと触らないようにしてきたこのアンビバレンスがまた顔を出してきたようだ。
この陰惨な戦争の揺れは当分治まらないだろう。
今こうして思いを書きあらわすことで、散らかってしまった僕の見解やら感情やらを整理しようとしているのかもしれない。
* * *
今回の事件に対する世界の論調はざっと単純に二つに割れていて、一方にはハマスの残虐な「テロ行為」に対する報復を目的としたイスラエルの大軍事侵攻を正当化している陣営があり、もう一方では圧倒的な軍事力によるパレスチナでの「大殺戮」ばかりをクローズアップで報道し、「人道」や「正義」といったレトリックで「占領国家の犯罪」をあぶり出し、激烈に批判している。
どちらにしても欺瞞があると思うし、そう客観している自分にもまた欺瞞と偽善があると心を乱されている。
実は、ああでもない、こうでもない、といろいろ考えてみたし、その考えをまとめてみようとも試みたのだが、「ユダヤ」と「パレスチナ」という二項対立に身を投げ入れてしまうと、それはアリ地獄のようで、その深淵からは決して抜け出せないような悪夢にうなされるのである。
浅学、浅識で結論を出すのは無責任かもしれないが、僕が今言えることは、その人の立場にならないとわからないものがある、ということだ。
戦争というものは、空間的要素である土地とか物体、または歴史などの時間的要素が付随する物事をめぐっての衝突が身体で体験される現象であるが、「イスラエル」「パレスチナ」の問題は形而上でのみ解決できるのではないかと僕は考えているからだ。
また、なぜ僕が自己の欺瞞と偽善をここで告白‐ここの土地柄「懺悔」としてもよいが、一神教が身にしみていない僕が言うとこれもまた欺瞞的であるから‐したかというと、20年近くも「壁のこちら側」に暮らし、何だかんだと言いいつつも、イスラエルの防衛システムにより一応平安な暮らしが保たれていて、また個人的にもこれまで随分と世話になってきた人たちも多くいながら、今回のハマスの残忍な行為‐ SNS等でちらっと見てしまったが、本当に酷い、病的に酷い‐に対し、それ復讐じゃ、征伐じゃ、というパトリオティックな気持ちにはまったくならなかったし、むしろこういうことはいづれ起こるのではないかという圧力は感じていたから、殺戮者の底知れぬ残虐については疑いの余地なく非難するが、僕は割りと冷めた目で事の因果関係をみていた。
その一方、普段から見聞きするイスラエル政府のパレスチナ人への差別的な扱いには反感を持ち、また第三国人して長らく暮らしているためか、僕には判官びいきの傾向がありながら、ガザで一般市民の死傷者が大量に出ていても、それは動画画面の向こう、壁の向こう、または静まり返ったテルアビブの浜辺の南の方から時折聞こえてくる爆撃音の向こうでの話で、アル・ジャゼラやBBCの統計する5000とか6000とかいう冷たい数字であり、子供らを失ったヒジャビ姿のおばさんの悲鳴や理不尽に対する男たちの怒号は、何か遠いもののように僕には響くからであった。
「ユダヤ」と「パレスチナ」の問題については、先にも言ったように、特に没頭して勉強したわけでもないが、非常に骨の折れる作業だと想像するし、また知識としての視野は得られても、果たしてこの人たちの「民族」として継承している感覚までが体得できるものであろうか、と疑う。
* * *
僕を遮て続ける「膜」のようなものがある。
それはイスラエル人たちが自民族を語るときの「私たち」や、自分の意思を伝えるときの「私」が持つ響きの、重く硬い壁のような感覚である。
これは日本人の使う「わたくし」や「我々」には感じとれない響きだ。
あるいはこの「膜」は、中東や欧州という地域で常に民族のアイデンティティを守るために必死で戦ってきた集合的遺伝子の持つ頑固さや深い悲しみ、そして時には凶暴にもなり得る個の信奉にうっかり触れて火傷しないように、僕自身が防衛本能で纏った鎧のようなもだろうか。
いずれにしても、僕はこの膜を使って「異邦人の風船玉」を膨らまし、ふわふわと漂っている。
そりゃ、こんな時には悩みもする。
結局のところ、
「必要悪」が人類の出し得る答えの限界なのだろうかと、ぼそぼそ、ふわふわと悩む。
でもそんな時、
ここには素敵な友達がいて、
何の意図もないのだろうけど、
何がなしに
頭のなかに崖ありて
日毎に土のくづるるごとし
(啄木)
なんてメッセージをくれるから、
悩んでも仕方がないかと、
俺の手に負えるものでもないかと、
こんな美しい秋晴れの日に、
まったく、
馬鹿じゃねえか、
と、
またふわふわと飛ぶわけでございます。
(10月のテルアビブにて、雑感。)
(つづく)